創造舎の近くに由井正雪に関するホットスポットがあって、未だ褪せることなく語り継がれている、だからその語りを、いろんな人に聞いた。Vol.1 安本酒醤油店@静岡浅間通り商店街
「創造舎の近くには、油井正雪自刃の地があるんだよ、面白くない?」という話を聞いたので、生真面目にそのことについて調べようとしたけれど、どうやら自分の手には負えない、ということに次第に気づいた。だったらいろんな人に正雪の話を聞いて、史実を織り交ぜながら、それを紀行風にまとめてみようと思った。これは、その第一弾レポートである。
「由井正雪」についてインターネット、図書館など手に入る資料で調べたら、こんなことがわかった。
〇 由井正雪は江戸時代初期に生きた。生家は由比の正雪紺屋という説、あるいは静岡市の浅間神社界隈(宮ケ崎町)という説がある。
〇 江戸で軍学塾を開き、多くの塾生でにぎわったという。彼が歴史に名を残したのは、慶安の変(1651年)で幕府転覆を狙ったクーデターを起こそうとして失敗したからだ。
〇 当時の徳川治世下では、お家取りつぶしにより大量の浪人が発生し、社会に暗雲が立ちこめていたという。由井は、3代将軍、家光の死を契機として、これを是正するべくクーデターを画策する。計画の詳細は、
1.江戸の町を焼き払い、その混乱の中、江戸城を乗っ取る
2.正雪は駿府にて兵をあげ久能山を押さえ、そこに秘蔵されているとされた家康の遣金を奪う
3.それを軍資金として天下に号令をかける
ところが、計画は事前に露見し、正雪らは静岡市の梅屋にて取り囲まれ、自刃した。世にいう慶安事件の発生である。
この梅屋というのが、創造舎の道を挟んで斜向かいにあったらしい。この件で、個人的に最も惨いと思ったのは、正雪が滞在していた梅屋の末路である。梅屋は宿を貸したというだけでお家とりつぶしとなった。同情した人々は、この宿のあった一帯を梅屋町と名付けた、ともいわれている。
正雪が今でも語り継がれる理由は、その後の幕政を見るとわかる。幕府はこの事件を契機として、武断政治から文治政治へと転換を図り、結果として世の中は正雪が望んだ方向へと変化していった。正雪は社会を変えたのだ。
ところで、人宿町についていえば、その影響は甚大だった。人宿町は、事件以前には「今宿」として旅人・諸大名の宿泊地として賑わっていた。が、事件が起こると伝馬町に本陣・脇本陣が置かれ宿泊地としての機能を失ってしまう。この事件以後は、旅人が勝手に伝馬町以外に宿泊することが禁止されたという。正雪自刃のその日は、間違いなく人宿町にとってのディープ・インパクトだったのだ。
安本酒醤油店の安本久美子さんに聞いた由井正雪、そして「街の歴史を知る」ということ
あべの古書店の店主、鈴木大治さんを以前訪問した時に、「由井正雪のことなら安本酒醤油店の安本さんが色々詳しいよ」、というお話をいただき、雨の降る6月の午後、静岡浅間通り商店街にある安本酒醤油店を訪問した。
旦那さんがいらっしゃったので、訪問の趣旨を伝え名刺を差し出すと、「そういったことなら、妻が詳しいから」と言って、奥様をご紹介してくださった。そこでお伺いしたお話は由井正雪を飛び越えて、戦争の話、静岡の地勢の話など濃い内容が盛りだくさん。なので、ここで一挙に紹介するのはもったいないし、そしてちょっと難しい。従って、また各々のテーマについて深堀したときに紹介させていただきたい。
さて、まず最初に、由井正雪が浅間通り商店街界隈、宮ケ崎町で生まれ育ったという説について短刀直入に聞いた。すると、それはあべの古書店の鈴木さんの説なのだ、という。やはりこの商店街で商売を営んでいた家に、そういった文書が残されているらしい。由井正雪の話はそこから、静岡浅間通り商店街界隈での歴史探訪の話へと移っていった。
静岡浅間通り商店街では、その界隈についての歴史を知ろう、という活動が行われており、その端緒には、街づくり、商店街活性化があったそうだ。街を元気づけるには、街の歴史を知らなければならないのではないか、ということで、約10年前から有志は集い、歴史探訪が始まった。例えばブラタモリに触発され、浅間通り界隈をめぐるツアーを企画実施。古地図の分析、年表の作成など、活動の幅も広い。年表はなんと弥生時代までさかのぼり現代まで列記。静岡にゆかりの深かった渋沢栄一が大河ドラマの主人公になったときには、彼の年表をエクストラで制作している。そして、その成果は「夢門前歴史帖」という冊子にまとめられ、平成25年(2013年)の初版から現在は第5版を数え、総発行部数は4000部にのぼるという。
「街をつくるには、その街の歴史を知らなければいけない」、なぜなら「自分の街の歴史を知るということは、現在の自分を知ることでもあるのだから」と安本さんは言った。それはつまり、この場はどのように成り立ってきたのか、そして、なぜ、この場に自分はいるのか、という問いでもある。
その問いに自ずから答えるように、安本さんは興味深い地図を見せてくださった。それは静岡市街とその奥の山並みが立体になった地図で、賎機山(しずはたやま)が伸びた先に駿府城が位置しているものだ。「この地図がすごい面白いんですよ」といって、安倍川や薩摩土手、市街の標高について説明し、水がどう流れるかを指し示しながら、なぜ、その場所に駿府城が位置しているのか、また、安本酒醤油店が、なぜこの場所にあるのか教えてくださった。
つまり、城下町を形成するにあたり、治水事業は重要で、賎機山で安倍川から守られるような位置に駿府城は計画された。賎機山の先端にある浅間神社から参道が伸びているが、それに平行して、今は暗渠となってしまった水路がある。そこには賎機山にぶつかり静まった安倍川の水や賎機山から下ってきた清水が流れている。酒造醸造所はきれいな水とその動力等を必要とするが、ここはまさにうってつけの場所であり、その場所で文久3年(1863)、安本酒醤油店は創業した。
これらのポジショニングは、とても理にかなっていて、且つ、必然であるように見える。
様々な事件や出来事、直近ではコロナが世界中を席捲したが、それでも安本酒醤油店は、そこにあることが必然であるこの場所で、脈々と商いを続けてきた。そういった諸々のことを、楽しそうに、そしてちょっとだけ誇らしげに、時に伝統に対する責任感を漂わせて、安本さんは語ってくださった。
街の歴史を知り、それを誇りに思い、そしてこの場にいる自分について思うこと。そういった思いの一つ一つが重なると、街はますます鮮やかな色を帯び、生き生きとしてくる。そう、改めて思った。
今回、貴重なお時間を割いてお話をしてくださった安本酒醤油店のご夫妻に、この場を借りて心から感謝申し上げたい。
現在(2022年6月)、静岡浅間商店街の安本酒醤油店では奥様の親族の方々の、戦争に纏わる遺品が展示されています。ウクライナとロシアの戦争勃発が展示の動機とのことです。ぜひ、ご訪問ください。
店舗情報: 安本酒醤油店