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匠の継承 石編 社員旅行2022 Vol.6

くじ引きで将軍になり恐怖政治を敷いた六代将軍義教が重臣たちの集まる宴席で暗殺された嘉吉の乱。室町時代はその後、応仁の乱などを経て乱世となり、多くの京都貴族が地方へ移住した。駿府の今川家の元にも多くの京都文化人が集まり、氏親を中心に豊かな文化が花開いたという。
兵庫県の竹田城は、そんな社会のシフトチェンジを予感させる乱の際に、将軍暗殺の首謀者、赤松満祐を討伐するべく、後の応仁の乱の西の総大将になる山名宗全が築城に着手、重臣の太田垣氏が城主を務めた。現在、城の建物は残っていない。一方、石垣遺構はしっかりと残存し、雲海に浮かぶ姿から天空の城などと言われ、多くの観光客が訪れている。
この石垣は見事だった。築造に関わったのは穴太衆という石工集団。ちなみに石垣文化は東よりも西日本が先進地帯だったそうで、きっかけは、日本城郭建築の先駆けといわれる織田信長の安土城だそうだ。この穴太衆が経験を蓄積し、技を育て、継承したことによって、石の文化が西日本で育ったのだろう。

竹田城 石垣 ©創造舎


石垣の石材は、竹田城の建つ古城山の隣の観音寺山で採取された花崗岩。節理があるので、観光客の増加により、ひび割れなどが発生してしまい、現在メンテナンスを検討中なのだそうだ。

竹田の城下町を散策すると、見事な石垣群を見ることができる。もはや築造者など知る由もないが、街の至るところに、整った石垣がある。
竹田城の建つ古城山の麓には、幾つかの寺が並立している。その前を流れる小川があり、寺の基壇の石垣が川底から立ち上がっている。

麓のお寺群©創造舎

寺の石垣と小川 ©創造舎


姫路城の石垣を見たときにも、雨掛かりする部分としない部分はこれほど見事に色が分かれるか、と思ったが、ここでも、変色する下部とそうではない上部を分けるラインが見事に走っている。そして、その上には土塀、もしくは漆喰壁。頂部には瓦の小屋根。よく見るコントラストだが、これが悪くない。

姫路城石垣 色の変色 ©創造舎


また、麓では農作物が育てられており、棚畑となっているが、この棚の擁壁も石垣で組まれていた。この量の石を積むと、一部の岩が抜けてボロボロになっていそうなものだが、メンテナンスもしっかり行き届いているように見える。

さりげなく石垣 ©創造舎


街はずれの山麓にある表米神社にはあまり他に例がないらしい、石垣でできた相撲桟敷。土俵を囲んで円弧状に築造された石垣の擁壁が幾重にも重なる。お石垣上のフラットな桟敷部分には若草が生え、それが段々に折り重なり、深緑の森へと消えていく。

麓にある表米神社 石の相撲桟敷 ©創造舎


また、寺の裏には、竹田城最後の城主(赤松広秀)の墓があり、うずたかく積まれた墓石がナゾの集合体をなしていた。

石碑群 ©創造舎


朝食のあとにちょっと散歩しただけでこれだけの石垣に出会うのだから、散策の目標を明確に石垣に絞ったならば、もっと多くの石垣に出会うことができただろう。また、これだけ多くの石垣があるということは、メンテナンスも必要になる。
建築や土木もそうだが、昨今の風潮として、建てればそこですべてが終わる、ランニングコストは無駄づかい、という考えがあるような気がしてならない。しかし、これだけの石積文化を見せられて思うのは、実は何かをつくった後、それを継承し、維持していくために、経費をつぎ込まなければいけないのではないのか、ということだ。
ランニングコストを常に捻出する、ということは、維持管理をする職人を育て、その技を継承させる、ということでもある。ここをカットしてしまうから耐用年数の長いと言われる味気ないマテリアルが街中に溢れてしまう。たしかに、無垢の木を外部に使うと変色してくるので、塗装をある周期で繰り返さなければいけない。しかし、何度もメンテナンスされてきた木には塗装が層状に沈着し、そこに深さが生まれる、とは言えないだろうか。

竹田城下町 ©創造舎


竹田の城とその城下町では、天空の城といわれる竹田城の景観はもちろん見ごたえ十分だったが、むしろ石文化とその継承がよくわかるたくさんの石垣群が面白かった。