人宿町の、地にはキャベツ、空にはキネマの灯が宿る
人宿町人情通り界隈歴史探訪
人宿町人情通り。駿府城下町の一画、新通りと七間町通りに挟まれた旧東海道の一辺であるこの通り界隈は、人々が集う交差点でもあり、様々な歴史の交差点でもある。
その歴史を深掘りし、通り過ぎて行った人々や事々の物語を紡ぐ。
今回のテーマは、寺町(加えて薩摩通り、西見附など)。
先日、宝台院住職からお話を伺った折に、駿府城城下の旧寺町が防御施設として計画された、という話が改めて印象に残った。
寺町、と聞いてすぐ思い出されるのは京都の寺町筋で、塀などで囲われていて兵が集まって防衛にあたることができるので秀吉によって寺が計画的に集められた。現在では、境内の緑が連なりグリーンベルトになっている。
静岡の寺町は、残念ながら昭和15年の静岡大火、並びに20年の空襲により、多くのお寺が焼失、あるいは移転し、残っている寺院もあるが、現在寺町通りとしての面影はあまりない。
そんなことを考えながら江戸から明治時代の地図を眺めていると、藤森照信先生が、著書「明治の東京計画」で述べていたことをふと思い出した。少々長いが引用してみる。
西洋都市が一枚の殻でたまごのように閉じていたのに対し、江戸などの封建都市を見て先生曰く
「わが封建都市はどうであろう。(中略)市域を侵すのは(中略)たやすいが、かといって市中の奥深くそのまま馬をとばせるかというと、むろん、武家の都の面目にかけてそう簡単に許すはずもなく、種々の障害が折り重なり、巡り合い、一歩進めば一段高く、二歩進めば二倍堅く、行く手を阻む。たとえば濠、石垣、土手、堀の組合せが渦を巻くように幾重にも重なり、まるでキャベツが葉を巻くように本丸を包み、下町を巻き込む。市中の道はこうした遮断装置の間をぬい、時には貫いて設けられるが、だまって通すわけもなく、枡形と曲の手と木戸がたちはだかる。」(明治の東京計画、藤森輝信著、岩波現代文庫、P160-161)
このように、ヨーロッパの中世都市を卵に例えるとしたら、日本の封建都市はキャベツのように閉じていたという。うーん、キャベツかぁ。と、うなりながら江戸から明治にかけての駿府城下町絵図たちを眺めてみると、なるほど、駿府の城下町がキャベツ都市に見えてきた。
キャベツ都市の西側防御
旧寺町筋は西側から来た敵を防御する。一列に並んだ寺と寺町筋の東の要である宝台院まではがっちりと密に固まっているが、その左右は、しかし、開いている。
少々視野を広げてみよう。家康大御所時代は、大阪城を中心とした豊臣家を警戒して西側の防御を重視したといい、駿府城下町の西側には自然の要害として、安倍川がある。
橋のなかった安倍川東岸からは東へ向かって東海道が伸びるが、安倍川のほとりには府中宿の西の端、西見附と呼ばれある見附があった。そこは枡形になっていて、石垣で囲まれ、その廻りに環濠がありプチ要塞の体をなしている。
今回、調べた限りでは見つけることができなかったが、東海道街道筋には多くの木戸が存在したのだろう。木戸は町々に分散して設けられ、江戸や名古屋などの他都市に比べると少なかったようだが、特に西側の安西通りや北側の横内町に多く設置されていたという。(東海道駿府城下町(上)、東海道中核都市の誕生、(社)中部建設協会 静岡支所、P158)
また、安倍川の氾濫に備えるために作られたという薩摩土手。これはもちろん駿府城の防御施設で、安倍川の境界性を二重に強化した。
特に面白いのは、この土手がひやん土手と呼ばれて、異界への境界と恐れられていたことだ。なんでも、土手の上には火葬場が存在していたそうで、加えてそこには三途の川を渡る亡者の衣をはぎ取るという奪衣婆が祀られた奪衣堂なるものがあって、子供たちから恐れられていたという。土手は部分的に現存しているが、大部分は撤去され、今日では薩摩通りになっている。
このように、あの世とこの世の混淆する都市の境界には猥雑、煩雑なエネルギーがあふれ、こういった場所から新たな文化が発生するのだということは、歌舞伎の出雲阿国を引き合いに出すまでもないだろう。
そして、駿府西側を形成する境界は、きっちり閉じるわけでもなく、しかしキャベツのように何重にも張り巡らされていた。
宇宙的広がりを見せるキャベツ都市
ところで、西側境界の中でも特に顕著な薩摩土手と寺町筋が、防衛施設であるとともに、一方があの世、他方が極楽浄土という、異界と繋がる指向性を持っているというのが駿府城城下町の面白さでもある。
さらにいうのであれば、人宿町を含む都市の町割りが、グリッド割されていることにも注目したくなってくる。それはなぜかといえば、天皇の居住した都の多くがグリッドで構成されているからだ。思い出すだけでも、藤原京、平城京かつ平安京など、枚挙に暇がない。天皇は天の不動点である北極星との関係性によりその神性を高めたといわれているが、その際に、都城の構成もその寄与に大きな影響を与えたことはまず間違いないだろう。
加えてグリッドはヒッポダモスによりミレトスで初めて都市計画に使われたというが、自然に抗うその幾何学性により、数学的、もしくは神学的な意味合いがそこに含まれていたという。
このように、天を志向する都市グリッド、寺町筋、更にはひやん土手などが相まって、天空に星の煌めきを散りばめる宇宙的広がりの更に向こうにある何かを、静岡の上空に与えているような気がするのだ。そしてそれが、映画館の暗闇の中に投影される光と重なり、スクリーンを通して未知なる世界を垣間見せてくれるキネマの宇宙へと繋がっていったのではないか。実際、七間町通りにあった映画館の一つはオリオン座といって人気を博していたというではないか。
地にはキャベツの名残り、天にはキネマの明かりが宿る、そんな都市の一角、人宿町の日が暮れはじめると、今日も街に灯りが宿り、人々が集う。
参考文献
「東海道駿府城下町(上)」、編集・発行:東海道中核都市の誕生、(社)中部建設協会 静岡支部
「平城京遷都」、著者:千田稔、中央公論新社
「明治の東京計画」、著者:藤森照信、岩波書店
筆者:川合
ドイツを中心にヨーロッパの大都市、小都市(独ロマンチック街道、仏プロバンス、伊トスカーナ)に魅せられ、ヨーロッパでの生活、旅についてツーリズムサイトあるいは某芥川賞作家の運営するサイトにてWEBライターとして執筆。
ミュンヘン工科大学にて博士号取得。ドイツ、ミュンヘンの設計事務所に勤務し、ミュンヘン郊外のプリンツオイゲンパーク大規模住居エリア開発では、中核となる建物の実施設計などを経験し、帰国。